昨日、『NOTHINGPARTS71」の初日に行ってきました

じつを言うと、観る前はかなり緊張してました。
仙頭さんとは長い付き合い(考えると20年以上)で、プロデューサーと音楽家という関係であり、社長と社員(!)の関係だったこともあります。
後、関大 vs 関学

愉しい事もしんどい事も一杯ありました。

なので「仙頭さんが監督して『ハズレ』だったら、どうしよう・・・う〜ん、気まずい・・・歯の浮いたような事は言いたないけど、大人なんやしなぁ・・・」という、ややドンヨリした気分でユーロスペースに。

7年ぶりぐらいに会う仙頭さんは、なんかサッパリしてて(関西弁で言うところの「シュッとした」)、上岡龍太郎やしきたかじんっぽい雰囲気で、言うと関西のインテリお笑い芸人風。
(私はやっぱり緊張していたみたいで、後から仙頭さんに「お前、あん時、顔ひきつっとったで」と、上映後に言われました)

上映が始まります。
「ごっついちびっている感じ」のオープニングの映像と音楽にちょっと不安が的中します。本編に入っても、「カメラのピントが・・・」とか「う〜ん、音楽のタッチ(短いアクセント)がなんでココに入んの?」とか「音楽入れ過ぎやん」とか不安が段々と確信に変わっていきます。

なのですが、主人公2人が部屋で晩ご飯を食べて古酒を呑もうという件から
スルスルっと映画の中に入っていけました。「なんでこんなにボコボコな所が一杯あるのに観れるんだろう?」と観ながら考えていると「ああ、これは仙頭さん流マジックリアリズムなんだ」という結論に。
ブニュエルとか金井勝とかの名前がよぎります。

しかし、これを「沖縄」という「場」の特性という事だけで片付けるのは駄目なんじゃないかという気がしました。

「この映画が駄目だ」という事ではなく、受け止める私達側の問題として。

この世のどこにでも(もちろん、上映しているユーロスペースにも)マジック、「奇跡」は「起こりうる」のだと思います。しかし、ソレを見えなくさせるシステムが世の中を覆っている(沖縄も例外ではない)のだと。
この映画を「沖縄が抱える問題を告発する映画」として「しか」観ない考え方も、そのシステムの一環なのではと。

後、ラストはこの終わりじゃない方がカタルシスあったかも、という気がしましたが、「ファンタジーに留まらずにリアルにつながる」にはこの終り方なんだなぁと帰り道でフト思いました。

https://www.youtube.com/watch?v=cBqd6Oobt90

長嶌寛幸