やや暖かい日

細かい注文を処理。
 
昨日のおでんにトックを継ぎ足して昼食。
少し休んでから作業の続き。
灯油を買いに行き、
その後に郵便局。
 
首筋が余りに痛むので自分でマッサージ。
目と頭が少しハッキリする。
続いて足湯。
それから足裏のマッサージ。
 
その間、アルテミエフの作品集を聴き返す。
殆ど新録だが『Meditation』と題された
『ストーカー』使用曲だけは旧録で
これが実によい。
変調された民族楽器が爪弾かれる中、
後ろでシンセサイザーが緩やかにうねる。
当時買ったパンフレットではEMS Synthi100の前に座る御大の写真が載っていた。
映画では<ゾーン>に向かうトロッコの車輪が変調されてゆく所もGJだった。
 
Synthi100といえばシュトックハウゼンの『Sirius』。
『Telemusik』では(恐らくはほぼ)コンセプトに留まっていた
変調技法がここでは自在に駆使され、
かなり成功を収めているように思える。
(CDを聴き、ブックレットを読んだ範囲での感想。
実際の演奏を経験していないので、単なる思い付きだけれど。)
 
そういえば、以前、東京の楽器店Five Gに
くだんのシンセサイザーが入荷したので見に行った事、
目にした時の感動は今でも鮮やか(記念撮影までしたのだから!)。
ある種、化け物みたいなマシン(個人的にはAKSで充分。
機会があればバンマスのBuchlaはまた触りたいけど)。
 
音の用いられ方で記憶に強く残っている映画は
小林正樹『怪談』での武満徹(いやホンマGJ)。
それからクリス・マルケルラ・ジュテ』。
特に後者はささやき声、心拍音の様なノイズ他、
全く無駄が無く、今でも見返したくなる作品。
というか、題含め奇跡的な美しさで
初めて見た時には涙をこらえることが出来なかった。
(極めて個人的な<男泣き映画>として未だ上位に位置。)
 
マッサージを終えた後、レコードを聴く。
スパークス『No.1 Song in Heaven』、
それからメタル・アーベインの発展型(?)こと
ドクター・ミックス&ザ・リミックス『Wall of Noise』。
後者を聴くとダフト・パンクが出てくる土壌も少し解るような気がする。
 
風呂屋。帰って蕎麦。
その後にホットワインを飲み、
再びレコード『高橋悠治バッハ・リサイタル』を聴く。
ここ暫く12時を過ぎて眠る日が続いているので
早く休むことにする。

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−ぼくは「誰のために作曲するのか」という問いに答える代りに、こう言いたい。つまり、ぼくは作曲家の母(a mother of composers)になりたいと願っているのだ。人類の歴史はいつの日か終わり、やがて異なる知性が人類の存在にとって代わるときがくるだろう。そのとき、その新しい知性が音楽を作曲できるように、その道を開いておきたいと思うのだ。音楽とは抒情的(emotional−抒情的であるとは、外の世界に関心をもつことができる、ということなのだ−)なシステムであり、それはすばらしい存在なのだから。
 抒情的なシステムであるということは、それがひとつのシステムとして自己防衛本能をもつものであると同時に、外の世界に対して開かれているということなのだ−
     *
 昨年8月、万国博の<スペース・シアター>で内外の第一線で活躍する若い作曲家のシンポジウムが行われたが、冒頭に書いた文章は、そのときの高橋悠治の発言内容である。彼のこの発言はあのシンポジウムのなかで、ひときわ異彩をはなつものであったし、その後折にふれてわたくしの心に浮かんでくるのだった。
 
高橋悠治の「音楽」と「演奏」/武田明倫
高橋悠治バッハ・リサイタル ライナー・ノート)

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