昨日、午前中から麻布で短いダビング。

久しぶりなので、やや緊張。
しかし、予定より早く終了。
すぐさま次の打ち合せの場、渋谷へ。
しかし約束の時間まで2時間もあるので、軽い昼食を取り、丸善ジュンク堂へ。
そこで岩波の「思想」のジャック・ラカンの理論的変遷(5)(向井雅明)が載っている号を発見。待ち時間の事も考えて購入。待ち合わせ場所のカフェで読む。

で、これが良い。Tが一昨年(気の長いハナシ)(4)を送ってくれたんだが、(4)に比べての(5)の異常なまでの明快さ。
打ち合せをつつがなく終え、自宅で寝る前に続きを読もうと思うと、しかし「『本』がない」。どこか(カフェか電車なのか?)に置いてきたらしい。ラカンを読み出して「最もラカンが分かった『気になった』」瞬間、ラカンはスルリと「逃げて」いってしまった。まあ、「ラカン的な、あまりにラカン的な」と言えばその通りなんだけども。

「(1)〜(3)も合わせてこの際、買う」という手もあるが、なんとなく「1冊の『本』」となった時に、また読めばよいかという気が今はしている。いつになるかは運まかせだけども。

しかし果たしてコレ、「乾坤一擲」を「逃した」のか、それとも「掴んだ」のか。
アトもはや、うろ覚えなのだが、最後のフレーズ「精神分析は人生をふてぶてしく生き抜くためのものだ」の「精神分析」を「Dowser」と置き換えてみたいとも。

ドウ、思うかね?TとM。

花登筺育ちとしては「甘ちゃん」ではなく、やっぱり「あかんたれ」と言いたいNより。